映画監督志望だった舞踊団の演出部A氏が綴る寅さんの人間観をご紹介します。
寅さんは自分より他人の心を大切にする。
日本の民族舞踊も幸福を祈り踊る点で、とても寅さんに近しい心情がります。
様々な出来事を抱えたまま、寅さんは旅にでる。
そんな寅さんには、詩人の心が宿っている。
人間の喜怒哀楽を包むように時おり空を見上げる。
大きな青い空が広がっている。
寅さんは世俗的である。誰よりも俗人である。
詩心をもっている人は、世の中の美しさや人生の詩情を知り、騒がしい世間ののなかでも心の安らかさと楽しさを会得するのである。
そこには、詩歌の才能や学歴や富裕であるかどうかは、まったく関係がない。
観客は寅さんと渥美清を一体に観る。
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松尾芭蕉「しばらくは 花の上なる 月夜かな」のように。
種田山頭火「分け入っても分け入っても青い山」のように。
詩人のまなざしは、心に向けられている。物でさえも単に物とは見ない。
詩人は、大自然に抱かれ草木と語り、天空にあそび星々と語る。
古の歴史と対話し、人生を憂うる。
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「渥美清という人は、いわば私心を去り、無心の境地に達することに不断の努力をしている人だとおもう。
役者というのは、童子のように無心でいなければならないということをかたくなに信じている人です。なにも考えないでいる。ポカンとしている。
頭の中が透明で空っぽの状態であることがいかにむずかしいかということをいちばんよく知っている人なのです。」
「寅さんを演じる渥美清さんがみせかけでなく真の無心の心境であるからこそ、はじめて表現しうるものなのです。」(映画をつくる1978)
山田監督は、こうも語る。「四角いトランクをぶらさげた寅さんが、広い草原をポクポクと歩く。疲れると川原に寝ころび一眠りしてはまた旅をつづける。
雲が映り、水が映る。観客は雲をながめて幸福な追憶にひたり、水を見ては悲しい思いに涙する。
そんな風な映画でありたい。
いつかは、そんな映画をつくりたいと“男はつらいよ”をつくりながら渥美清さんと私はときどき話しあったことがあります。
更に山田監督は語る。
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「寅さんの身の処し方は“寅さんは、どこか旅にいっているだけ”なのであろう。」
<芸術とは人を楽しませることだ>という柳田國男の言葉を今日ほど思いだすときはないのです。」
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「……例えば、日暮れ時、農家の畔道を一人で歩いていると考えてごらん。
庭先に、りんどうの花がこぼれるばかりに咲き乱れている農家の茶の間、
灯りがあかあかとついて、父親と母親がいて子供たちがいて賑やかに夕飯を食べている。これが、これが本当の人間の生活というものじゃないかね。」
第7作「寅次郎・奮闘編」
「……そうして、いつか思いおこされるのは、わたくしのガキの頃でございます。
わたくしは、川のほとりで生まれ、川をながめながら育ったのでございます。
祭りから祭りへのしがない旅の道すがら、きれいな川の流れにであいます。
と、ふと足をとめ柄にもなくもの悲しい気分になって川をながめてしまうのは、
そのせいかもしれません。
今頃、故郷に残したわたくしの家族たち、たったひとりの妹さくら、その夫の博、息子の満男、おいちゃん、おばちゃんたちはどうしているのでございましょうか。」
第42作「寅次郎・ぼくの伯父さん」
映画の鑑賞者は、詩人・車寅次郎氏とともに、芭蕉や山頭火のように、人生の旅をつづけているのである。
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寅さんみたいに自分らしく、日本中を旅してみたい!!
そんな思いにかられました。
目標に向かってがむしゃらに走る人生も素晴らしいと思いますが、
これほど沢山の人に、長い年月「寅さんが」愛され続けるのは、
なぜでしょうか?
「フーテンの寅さん」誰もが「フーテンの人生」を許される事はないけど、
寅さんのように人情に熱く、何かに縛られない人生を沢山の人が求めている。
そんな社会であるとという事だと思います。
旅は、自然の豊かさや厳しさ、そこに暮らす人の温かさに心洗われます~
のんびりローカル線に乗って、旅をした~い!!
桜を求め~何処へいこうかな~っと。
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