• 布施谷貞雄の演出事務所です。世界50数ケ国以上の文化交流公演で世界のArtestと出会い、現地に降り立ち共感してきました。日本文化の発信にも取り組んでいます。

ソメイヨシノの由来

桜・染井吉野誕生の由来

染井吉野は桜の代表種で日本の桜のおよそ8割を占めてます。
東京の開花宣言の標本木は靖国神社の「染井吉野」です。
染井吉野は当初、奈良県山岳部の桜の名所<吉野山>にちなんで、「吉野桜」と命名されましたが、吉野山の桜はヤマザクラなので誤解を招くとして、明治33年(1900年)、藤野寄命博士により、「染井吉野(ソメイヨシノ)」と命名され、明治以降に全国に広まりました。
桜が全国に広がったのは、深~い意味がありますが、それは又、別の機会にしますね。 「染井吉野」はバラ科の落葉高木。

江戸時代末期、染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋が、「江戸彼岸桜」と「大島桜」を人工交配して誕生した園芸品種です。気温に敏感で4月ごろから淡紅色から白色となる花が咲きます。
花が大きく香りのよい「大島桜」の華やかさと花が咲いた後から葉が出てくるという「江戸彼岸桜」の特徴を併せ持ち、見事な咲きっぷりで一躍人気品種となりました。
映画<遠山の金さん>がクライマックスで諸肌脱いて見せる桜~~~
あれは<染井吉野>なんですよ~
ある桜守りの曰く「あれは、染井吉野でなきゃ~様にならねネェ~」そうです。
桜・染井吉野は駒込染井村の植木職人によって誕生江戸時代後半期、染井村の通り沿いには、植木や鉢植えを栽培し<あきない>する植木屋が軒を連ねていたんですね~

桜・染井村の植木職人

染井村の植木屋については万延元年(1860)に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンが以下のように述べています。(R・フォーチュン著「江戸と北京」染井村の壮観の部分より)「交互に樹々や庭、恰好よく刈り込んだ生垣が続いている公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報じた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が1マイル以上も続いている。
私は世界のどこへ行ってもこんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ3~4エーカー(約4000坪)の地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも数千の植物がよく管理されている」つまり、庶民の暮らしに植え木や、鉢植えを楽しむ日常があった~~~。のどかで平和な暮らしがあったんですね

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窓辺に花を飾るベネチアなどの風景が目に浮かびます。花のある暮らしは平和で幸福の象徴ですよね!!
日本の舞踊文化も文化・文政時代。
つまり~世の中が平和になって発展しました。平和な庶民の日常~~~平凡な暮らし~~~
そこにしか文化の華は開花しないんですね。世界が平和でありますように~~~祈らずにいられません。

染井村に眠る墓~~遠山金四郎・高村光太郎・芥川龍之介など

霊園付近には岡倉天心や二葉亭四迷・高村光太郎・谷崎純一郎・芥川龍之介などが眠っている。皆様ご存じの入れ墨判官・遠山金四郎の墓もあります。
大名庭園六義園は京の粋お尽くした庭園があり、見事な枝垂桜を見に毎年、沢山の方が訪れます。文中に出てくる<一直線の道>は、JR駒込駅方面から染井霊園へと続く。く現在の染井通り、私たちの舞踊団の拠点は、まさに染井村。馴染み深い通りです。今年は桜をじっくり楽しみながら、稽古に励みます。では又~~

 

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